『ミッシング』 三人の男が見せる、ギリギリの人間像

ミッシング

いまや新作が出たら必ず観る監督の一人、吉田恵輔氏。予告編やタイトルから明らかなように、今回は子どもが失踪した母親を描いたシリアス路線の話だ。

吉田作品では、程度の差こそあれ、「人間がギリギリまで追い詰められたとき、そこから何が起こるのか」という極限の姿が描かれる。これまでは『空白』がその最高峰だと思っていたが、この『ミッシング』はそれに並ぶか、あるいは超えてくる凄みのある作品だった。

石原さとみ、だけじゃない

本作の見どころは何か? そう聞かれてふつうに答えるなら、石原さとみの鬼気迫る演技が真っ先にあがるだろう。

彼女が演じる母親の沙織里は、いわゆるヤンママ系だ。口が悪く、なんなら手も出す。弟の圭吾を「オメーほんとに何なんだよ!」と詰めるシーンなどはかなり怖い……。

何より、「あの石原さとみが!」という、華のあるイメージとのギャップは衝撃的で、他のレビュー記事などを見ると、それを取り上げて「石原さとみがぶっ壊れた」みたいな煽り口調の評も多い。たしかにこれまでの出演作からすると、本作での演技の質は明らかに異次元だ。

ただ、それはもう自明のこととして、今回はちょっと置いておくことにしよう。というのも、実は本作では脇役陣、特に準主役ともいうべき三人の男性が、最高の仕事をしているのだ。

沙織里の弟の圭吾(森優作)、沙織里たちを取材する地方テレビ局の砂田(中村倫也)、そして沙織里の夫の豊(青木崇高)。

彼らの好演を見ると、本作は単純に石原さとみが一人で背負っている映画ではないということがわかる。それぞれについて、印象に残ったところをあげていこう。

弟の圭吾(森優作)

行方不明になった6歳の娘・美羽と最後に一緒にいたのが、この圭吾だった。

当然ながら、そのときの状況について、警察やメディアからもいろいろと聞かれるわけだが、圭吾は言動が不審で供述内容もころころ変わる。そして何より受け答えに誠意が感じられない。

周囲からなじられると過剰に狼狽し、その様子から「やっぱりあいつが何かしたんじゃないか?」と疑いの目を向けられる。特に前半から中盤にかけては見ていてイライラするし、圭吾に対する疑念と不信感が募る見せ方になっている。

しかし、後半になるにつれ、「あれ?」という違う一面が見えるようになる。そしていつしか、彼の側に立っている自分に気づくようになる。

誘われるがままに行ってしまった違法賭博、幼児時代のトラウマ的な出来事、美羽との些細で幸せな思い出。そして彼なりに美羽を探そうとした努力の跡……。

そう、当たり前のことだが、圭吾にも圭吾なりの事情や感情があったのだ。

彼にとっての美羽の失踪は、本当はちっとも他人事ではない。周りからは理解されないが、ずっと後悔し、ずっと苦しんできた。

車のなかで沙織里と姉弟二人になったとき、堰を切ったように「美羽に会いたい」と泣き叫ぶ姿が印象に残る。

地方テレビ局の砂田(中村倫也)

砂田は基本的にポーカーフェイスだ。地味な仕事にも不平を言わず、人に頭を下げながら淡々とこなす。そこには彼なりの矜持がうかがえる。

ただし、野望や嫉妬とまったく無縁というわけでもない。

下世話なスクープで評価されてキー局に栄転した後輩を、気持ちを押し殺しながらも羨んでいる。内心では「なんで俺じゃなくこんなやつが」と思っているはずだ。

ちなみにこの後輩のムカつく感じとかも、あいかわらずうまい。男子トイレでの会話シーンで「アザラシの番組よかったですよー」みたいに、小便しながらフレンドリーに侮辱してくるところとか、本当に絶妙だ。

さらに、新人であんまり仕事ができない女子後輩からは、落ち込んでいるときに励まそうとしたら「こんな地方局でも地道にがんばってる砂田さんって、えらいと思いますっ!」みたいな天然極まりない失礼発言をされて、逆に苦笑いするしかなかったり……。

そんな砂田の姿を見ていると、なんだか「俺はお前のことを応援してるぞ!」と言ってやりたくなる。

しかし、砂田もさすがにいつまでもポーカーフェイスではいられない。

砂田からの再三の懇願にもかからわず、視聴者ウケのために、被害者を出し抜くような放送企画を押し通そうとする上司たち。もはやプライドのかけらもない彼らにめずらしく強い口調で説得しようとすると、「まぁまぁ砂田。深呼吸っ」とまるで取り合わない。

逃げるように去っていく上司の背中に向かって、砂田は完全にキレた形相で、声には出さず呪詛の言葉を投げかける。

そう、この表情と仕草。これって前半で圭吾が車の中からやっていたのと同じだ。

以前は「こいつ、あぶねー」といった感じでそれを引いて見ていたはずの砂田が、一周回ってその圭吾と同じ状態になっている。これはちょっとゾワッとするというか、「自分は違う」と思っていても、人間の闇の部分というのは、実は通底しているんだなと思わされた。

夫の豊(青木崇高)

幼い娘をもつ父親ということで言えば、自分自身をもっとも重ねやすい人物だったのがこの豊だ。

ただ、序盤で感じたのは、「あれ? この人けっこう大丈夫そうじゃん」という印象だ。

美羽のことしか頭にない沙織里を、「いや、でもさあ」とか、「そんなこと言っても」みたいにたしなめる言動からは、沙織里が言っていたように「温度が違う」ということを感じないでもない。

なかば沙織里の強引な思い込みで、急遽沼津から蒲郡まで車で行くことになったときも、豊は内心で「いや、これたぶんダメだろ」と思っているのがありありとわかる(それでも付き合ってあげるところがやっぱりえらいのだけれど)。

案の定、蒲郡では何の手がかりもなく、情報を提供した人物も現れない。さらに、ホテルの夕食の席では、たまたま居合わせた女の子を美羽と勘違いした沙織里が軽くパニックになって叫び出したりして、さんざんな状況になる。

しかし、そこにホテルの受付の人がやってきて、豊に「チラシ、支配人が置いてもいいって」と告げる。

実は、豊はホテルに美羽の失踪チラシを置いてくれるよう頼んでいた。いやいや沙織里に付き合っているわけではなく、自らも行動を起こしていたのだ。

はっきりいって、それが実を結ぶ可能性は限りなく小さいだろう。しかしそんなことは百も承知で、それでも自分にできることをやっている。

そのあと、外でタバコを吸っているときに、豊は小さな女の子を含む三人の親子連れを目にする。その光景には、ついこの間まで同じように過ごしていた自分たちの姿が、いやでも重なって見える。

たまたま隣に来たおじさんにライターを貸しながら顔を背けると、そこには目を真っ赤にして、懸命に涙をこらえている表情がある。

それを見た瞬間に、すべてが氷解して胸がギュッと締め付けられる。「ああ、この人もやっぱり全然大丈夫じゃないんだ。めちゃくちゃつらいんだ。そりゃそうだよな」と。

決して温度が低いわけではない。何かにすがりたい気持ちは沙織里と変わらない。ただそれでも必死に、自分を見失わないように、彼はできることをやり続けているのだ。

行方不明になって時が経つにつれ、職場のカンパは少なくなり、ビラの印刷受注も渋られるようになってくる。しかし、豊は変わらず人に頭を下げ、沙織里を支えながら地道に活動を続けていく。

そして終盤のシーン。美羽と同じように幼い女の子が行方不明になるが、幸いにも無事に見つかる。その母親が、発見に協力してくれた沙織里と豊の前に現れる。

「美羽ちゃんのために、何か力になりたいんです」というその母親の言葉に、豊はこらえきれずに涙ぐむ(そしてこちらの涙腺も決壊する)。

美羽が見つかることを信じて、日々ひたむきに活動を続けてはいる。でも事件は着実に風化していき、ずっと心が折れそうな状態だったのだろう。

そんなとき、「あなたの気持ち、わかります。私も味方になります」とはっきり言ってもらえた。それが豊にとってどれほどの救いだったか。想像すると、本当にたまらない気持ちになる。

人はここまでできるのか

あらためて、吉田作品はやっぱり「人」の力がすごいと思った。

主演の俳優陣だけでなく、細部にわたるまで「誰でもいい」という役がなく、一人ひとりがしっかり光っているというか、どの登場人物にもその人にしかできない仕事が与えられ、それを確実に遂行しているように見える。

しかも上の三人のように、同じ人物でも画一的に描かれるのではなく、思いもしなかった別の側面が現れたり、もしくは何かのきっかけで変化したりする。

あたりまえだが、どんな人でも、人間というのは複雑なのだ。そのことを、毎回実感させられる。

本作はその題材からすると、幼い子どもを持つ親の方には安易にすすめられないくらいヘビーな面もある。また、家族や恋人など、大事な人を失った方にとっても、かなり辛い作品だろう。

しかし、その「救いのなさ」が、逆説的に「救い」になるのかもしれない。

終盤で挟み込まれるのは、砂田が関わるいろんな名もなき事件や事故、そして、海岸や線路など、毎日見ているような風景を切り取ったカットだ。

それらは、関係ない人にとってはまったく思い入れのないものだ。でも、そこには「当事者」がいる。その風景をかけがいのないものとしている誰かがいる。

「何でもないような事が、幸せだったんだなって……」と言う沙織里の言葉に、カメラマンがボソッと「虎武龍?」と突っ込むところは最悪で最高のぶち壊しシーンだが、やっぱりその言葉自体は嘘ではないのだ。

なんでもない幸せを守るために、人はここまでできるのかと、またひとつの限界を見せてもらった。豊が沙織里に、「沙織里、おまえすごいよ!」と言っていたのも、本当にそのとおりだと思う。

『異人たち』 All of Us Strangers とは誰のことなのか?

山田太一による小説『異人たちの夏』を原作にした作品。1988年には大林宣彦監督で映画化もされているとのことだが、どちらも未読・未鑑賞ということで、今回のレビューではそのあたりの比較はせず、単に本作を観ての感想。

監督はアンドリュー・ヘイ、主演はアンドリュー・スコットとポール・メスカル、サブキャストにジェイミー・ベル、クレア・フォイという顔ぶれ。

ゴースト映画

まず公式サイトからあらすじを引用。

夜になると人の気配が遠のく、ロンドンのタワーマンションに一人暮らす脚本家アダムは、偶然同じマンションの謎めいた住人、ハリーの訪問で、ありふれた日常に変化が訪れる。ハリーとの関係が深まるにつれて、アダムは遠い子供の頃の世界に引き戻され、30年前に死別した両親が、そのままの姿で目の前に現れる。想像もしなかった再会に固く閉ざしていた心が解きほぐされていくのを感じるのだったが、その先には思いもしない世界が広がっていた…

いきなりネタバレになってしまうが、本作はいわゆるゴーストものだ。

といっても、ホラー的な幽霊ではなく、とても現実的な存在として、幽霊である登場人物たちが出てくる。

主人公・アダムの両親は、彼が12歳になるまえに交通事故で死亡した。しかしアダムが電車に乗って故郷の町に行くと、そこにはまだ若い両親が暮らしており、当たり前のようにアダムを出迎えて会話をする。

これを「幽霊」と呼べるかもよくわからないが、とにかく現実ではありえない状況であることはたしかだ。

現実と非現実の境目は?

ただ、それがあまりに自然な流れになっているため、はじめは違和感を覚える暇もなかった。どこかに明確な「スイッチ」が入あって幽霊が現れるわけではなく、ごくふつうに「あっちの世界」と「こっちの世界」を行き来しているのだ。

こういう異世界的な設定でよくあるのは、現実と非現実が入れ子構造になっているパターンだが、そういうわけでもなさそう。

そして後半では何度も「夢オチ」のようにアダムが現実に引き戻される描写が続くものの、結局「はい。いまここ現実ね」というものは定まらず、そこをロジカルに理解しようとしても、現実と非現実の境目がはっきり見えてこない。

この地続きの不思議な感じ。比較的最近の作品でいうと『秘密の森の、その向こう』を連想した。

セリーヌ・シアマ脚本・監督のこの作品は、主人公の少女が、かつて自分と同じ年だった母親と森の中で出会って一緒に遊ぶという話だ。ゴーストものではないのだが、今の自分と同年代だったときの親と接触するという点で似ている。

また両作の共通点として、どちらも超常的な現象そのものにはほとんど言及しないということがある。そこは「なんとなく当たり前のこと」のような感じで話が進んでいくのだ。

そのため、「なんでこんなことが起こるんだ?」という疑問より、むしろそうした現象を通して、主人公の心がどう揺れ動くかということにこそ、フォーカスが当てられていく作品になっている。

同性愛を丹念に描く理由

両親以外の主要登場人物として、準主役ともいえるのが、アダムのもとに現れた青年・ハリーだ。

ハリー役のポール・メスカルは、『aftersun/アフターサン』でも希死願望を抱く若い父親役を見事に演じていたが、今回も人懐っこさと陰のある不安定さが同居する男をうまく体現していた。

設定上も実年齢でも、アダム(スコット)とハリー(メスカル)は一回りくらいの年齢差があるが、ハリーには若々しさだけでない魅力があってアダムとのカップルにも違和感はなく、同性愛映画としても画になる二人だった。

特に初めて部屋で二人きりになる場面は、相手を誘う会話や足を撫でる仕草など、お互いに求め合うさまが本格的で、けっこう濃厚なBLシーンである。

ただこれはあとから考えると、それまでずっと孤独を抱えてきたアダムの人生の殻に、ついにひび割れを起こすほど重要な体験である必要があったからこそ、ここまで丹念に描いたのかもしれない。

ハリーとの夢のような時間は、あまりに完璧すぎてその先の破綻を感じさせるものだが、それはアダムが内心で望み続けてきた愛でもあったのだ。

原題の意味は?

さて、ここで「異人たち」というタイトルについて、あらためて考えてみたい。原題は「All of Us Strangers」だ。

strangerを辞書で引くと、見知らぬ人、不慣れな人、初めての人、未経験者といった和訳が出てくる。

その中心的な意味は、違う世界に入ってきてしまった者、つまりその世界から浮いている存在というニュアンスだ。

ここでシンプルなとらえ方としては、「世界」は「現実」、「異人」はそこに迷い込んでしまった「幽霊」という図式が考えられる。

ただ、ここで気になるのは「All of Us Strangers」の「Us」の部分だ。

というのも、本作の主人公はアダムであり、基本的には彼の視点で物語が進んでいく。それに対して「Us」という場合、そこには当然ながらアダム自身も含まれるのではないか。

ということは、もしかするとアダム自身もStranger=幽霊ということ?

もちろん本作は、『シックス・センス』のマルコム(ブルース・ウィルス)のように、「実は死んでました」というのを最後に明示してオチにもってくるようなパターンではない。なので推測の域を出ない設定ではある。

しかし、原題から考えるとそう解釈できそうだし、物語の細部も、それによって説明がつくような点が多い気がする。

そもそも、ロンドンのあんな好立地のマンションに二人しか住人がいないなんてことも、冷静に考えるとかなり非現実的だ。

それにアダムは作家とはいえ、日常で仕事をしているような描写がほとんどなく、まったく生活感を感じさせない。このあたりも、生身の人間でなさそうな要素のひとつだと思う。

そうすると、この物語のメインの舞台である、アダムが見ている世界そのものが、実は本当に存在するものなのかどうかもあやしくなってくる。

死者は自分を映す鏡だった

本作は、最後まで鑑賞してもわかりやすいエンディング(オチ)があるわけではない。結局何が言いたい映画だったのか、モヤモヤする人もいるだろう。

そんななかで印象に残ったのが、両親との会話だ。

自分がゲイであることをカミングアウトできないまま両親と分かれてしまったアダムには、心残りがあった。

まだ同性愛が容認されにくかった30年前、もしそれを打ち明けていたら、果たして両親は自分を受けれてくれたのだろうか?

「僕はゲイなんだ。でも大丈夫だよ」と、それまで何事もないかのように話していたアダムだが、父親からかけられた言葉に、思わず涙が溢れ出してしまう。それは自分でも想像していなかった感情のように見える。

自分より若くして時が止まってしまった両親から、それでも「親」として言葉をかけてもらうというのは不思議な状況だ。だが、やはり親は親であり、子は子なのだ。そこには時間や年齢を超越したものがある。

そして、思い出のダイナーで両親と最後の時を過ごすシーン。黄昏のような光が降り注ぐなか3人だけで語らう、とても美しく胸を打つ場面だ。

両親との永遠の別れという悲しい決断は、一方でアダムの心の解放でもある。中年を迎えたアダムは、やっと前へ踏み出し、自分が信じるパートナー、すなわちハリーのもとへ向かう決心をする。

つまり本作は、それまで本心に蓋をして生きてきたアダムが、「異人たち」と出会うことをきっかけに、自分自身と本当に向き合うことができるようになる話だったのだ。その意味で、死者は自分を映す鏡のような存在だったのかもしれない。

ベッドに横たわるアダムとハリーがそのまま夜空の星になるというエンディングは、「ベタを躊躇なくやり抜く」という意味で、なかなか思い切った演出だなと感じた。

ただそうなると、やはりアダムも死んでいたということになるのだろうか?

異人たち(死せるものたち)は、思いを遂げて星となり、その集積が夜空を彩っている。そしてアダムとハリーも、その輝きのひとつなのだ、という解釈ができそうだが……。

果たしてその見方が正しいのかどうはわからないが、とにかくそのエンディングまでを含め、哀しくも幸福感を得られる作品だった。

『ビニールハウス』 この結末、見届けずにはいられない

予告編を見たときから、「これは暗そうな映画だなー」と思っていたけど、予想を超えたダークさで、むしろテンションが上がってしまう作品だった。

まずは公式サイトからあらすじを引用。

ビニールハウスに暮らすムンジョンの夢は、少年院にいる息子と再び一緒に暮らすこと。引っ越し資金を稼ぐために盲目の老人テガンと、その妻で重い認知症を患うファオクの訪問介護士として働いている。そんなある日、風呂場で突然暴れ出したファオクが、ムンジョンとの揉み合いの最中に床に後頭部を打ちつけ、そのまま息絶えてしまう。ムンジョンは息子との未来を守るため、認知症の自分の母親を連れて来て、ファオクの身代わりに据える。絶望の中で咄嗟に下したこの決断は、さらなる取り返しのつかない悲劇を招き寄せるのだった——。

最初から用意されているゴール

ネタバレと言えばそれまでなのだが、実は本作のゴールは最初から決まっている。

それはずばり、ビニールハウスの焼失だ。

ムンジョン(キム・ソヒョン)にとって、ビニールハウスは不幸の象徴にほかならない。新しい家での息子との暮らしが幸福だとすれば、彼女にとってのビニールハウスは、何としても打ち捨てて次に進まなければならないもの。つまりそこから脱出することが幸せの条件なのである。

それに、このビニールハウス自体も、すでに崩壊を想像させる雰囲気をまとっている。田園風景にまったく溶け込む気がなく、「でん!」と鎮座している出で立ちときたら、負のオーラが半端じゃない。さっきは不幸の象徴と言ったけれど、なんかもう不幸そのもののような見た目だ。

なので物語設定としても、外観の印象としても、「ああ、これが燃えるんだな」という、うっすらした予感が前半からすでに漂っている。ただこのあたりはもしかすると、『バーニング 劇場版』(原作は村上春樹の「納屋を焼く」で、納屋をビニールハウスに置き換えた韓国映画。監督はイ・チャンドン)のイメージが刷り込まれているせいかもしれないけれど。

ともかくこれは、「最後にはあのビニールハウスが焼け落ちる」というゴールがはじめから用意されており、それがどうやって達成されるのか、という観点で楽しむ映画と言っていいと思う。

この点で類似したものだと、三島由紀夫の『金閣寺』や、映画で言えば『葛城事件』など、「起こるべく大事件」を前提にした作品が思いつく。

本作もそういうものだと割り切ってしまっていいのかもしれない。というか、ミステリーやサスペンスの要素だけで最後まで引っ張っていく映画ではないので、そこを過度に期待すると肩透かしをくらう。

ゴールに向かって着々と積み重ねられていくプロセス。負のスパイラルが大きくなり、最高潮に達したときにカタストロフィが起こる。その結末がわかっていても、いやわかっているからこそ、「それ」を余さず見届けずにはいられない。

振り返ってみると、そんなタイプの映画だった。

まさかあの浴室が

話の組み立てということでいうと、前半部分はややスローペースな印象もある。不穏ではあるが劇的なことは起こらず、とりたててハラハラドキドキする展開はない。

しかしながら、登場人物の役割や性格、生活状況、そして小さな伏線など、あとから振り返ると、後半に備えて各場面がかなり周到に作られていることがわかる。入念なウォーミングアップという感じだ。

たとえば浴室。

前半では、認知症の奥さんを風呂に入れるという、訪問介護士として日常的なルーティーンの舞台として、浴室が出てくる。

ここで奥さんがムンジョンにひどい仕打ちをするので一瞬ギョッとするが、それを我慢してやりすごし、黙々と作業をこなす描写は「まあ慣れたもんだな」と、これが平常運転であることを印象付ける。

だからこそ、それがいつもと違った展開になるという、後半での飛躍が際立つ。「はいはい、いつものことでしょ。わかってますよ」という雰囲気だったのが、「え、マジで?」という凍りついた場に……。

「いつものこと」が、その日常を飛び越え、一気に「決定的な出来事」になる。見慣れた景色が「思いもしない緊急事態の場」に激変する切迫感。これには前半部の浴室描写が、実はボディブローのように効いていると思う。

さらに、終盤で老主人が起こす事件も、この浴室が舞台になる。前半で何気なく描かれていたそれが、実は非常に重要な舞台装置だったのだ。

そして「最悪」へと加速する

そして後半ではストーリーがぐんと加速し、勢いを増してたたみかけてくる。

ガシャン、ガシャンとパズルのピースがはまるように、最悪な結末の完成へと、着実に突き進んでいく展開。

このあたりは『アフター6ジャンクション2』の映画評を聴いて、いろいろと腑に落ちるものがあり、特に宇多丸氏がそれを「死のピタゴラスイッチ」という比喩で表現していたのには、「なるほど!」と膝を打った。

奥さんの身代わりをさせていたムンジョンの母親、クリア!

自分が認知症だと思いこんでいた老主人、クリア!

「先生」に凌辱されていたスンナム、クリア!

そして、ピタゴラスイッチの転がるボールが最後に目指すのは、言うまでもなくあのビニールハウス。

いけ! いくんだ! ここまできたら、最悪のゴールを見せてくれ!

「ビニールハウスの焼失」というゴールを、完璧に(=最悪の結末で)達成するため、緻密に組み上げられたこの装置。ならばそれを最後まで見届けなくてはなるまい。

そしてその達成の開放感をもってあっさり終わるエンディング。

ここでスパッと幕を下ろすのが、たしかにこの映画には一番ふさわしい。取ってつけたようなエピローグは不要というわけだ。

半地下とビニールハウス

そんなわけで、本作は「まあこういうものだ」と割り切って観られるかどうかで、楽しめるかどうかが左右される映画だったように思う。

ただ、ポスタービジュアルや予告編の映像からは、「韓国社会の闇」というイメージが喚起されやすいので、もしそのへんの社会派テーマを期待すると「思ってたのとちょっと違う」ということになるかもしれない。

キャッチコピーも、「半地下はまだマシ」という、『パラサイト』を意識させるものになっていて、「底辺争い」の様相を煽っている感じだった。

けれど、そもそも映画の成り立ちが違う。両作の「半地下」と「ビニールハウス」は、似たものではあるが、並列に扱って比べられるものではない。

『パラサイト』では、丘のうえにある高級住宅と、ふもとにある半地下の家、そして秘密の地下室という上下構造を駆使して、韓国の格差社会を比喩的に表すという大きな構造があった。さらに、そこに「水の流れ」(洪水)という要素も入れて、格差の仕組みと悲劇をダイナミックな見せ場として描いている。

一方『ビニールハウス』では、そもそも社会問題をテーマに据えているわけではない。というか、そこにはあえて手を伸ばそうとしていないようにも見える。

ここまで見てきたように、本作は「底辺から、本当の最悪に向かって突っ走る」物語、つまりダークエンターテイメントであり、「ビニールハウス」はそれを駆動するための象徴的なアイテムに過ぎないのだ。

もちろんこれは、どちらのほうが映画として優れているとかいう話ではない。やや乱暴に言えば、イヌとネコを比べるようなもので、種類が違うものなのだ。

とはいえ、ビニールハウスに暮らす人が実際にいる、という韓国の住宅事情はやはり驚きだし、そこから着想を得てこんな映画を作ってしまうとは、率直に言って「いやいや、おそれいった」という感想だ。

監督・脚本・編集を務めたイ・ソルヒ氏は、1994年生まれの女性監督とのこと。まだまだこれからという若さで、それこそこの先、ポン・ジュノのように化けていくのかもしれない。

『家族じまい』 それぞれの家族、それぞれの事情

「しまい」というネガティブな響きのタイトルから予想するほど劇的ではなかったが、なかなか味わい深い作品だった。

まずは紹介文を引用。

「ママがね、ボケちゃったみたいなんだよ」。
突然かかってきた、妹からの電話。
両親の老いに直面して戸惑う姉妹と、それぞれの家族。
認知症の母と、かつて横暴だった父……。
別れの手前にある、かすかな光を描く長編小説。
集英社ウェブサイトから

作者は桜木紫乃。今回はじめて読んだ作家だったが、熱の入りすぎない書きぶりと言葉のセンスが好ましい印象だった。

プロフィールなどを見てみると、北海道出身で実家が理容室だったとのこと。本作の内容ともかなり共通点が多く、自身の体験をもとに書くタイプなのかと思ったが、出版社のインタビュー記事を見るとまさにご本人がそう言っていた!

この小説に出てくる智代の家族構成は、私の家とほぼ同じなんです。起きる出来事はフィクションですが、智代の父と母を核とした家族関係は、我が家と同じです。父はもともと理髪店を営んでいて、最後、ラブホテルを経営していましたし、母親は今、認知症です。
家族じまい | 集英社 文芸ステーション

家族一人ひとりにも、また別の家族がある

さて本作の中身だが、長編小説とはいうものの章によって主人公は異なり、短編を集めた群像劇のようになっている。

そのため、全体として「ひとつの物語」という感じはあまりしないのだが、かといって物語の設定が章ごとにまるごとリセットされてしまうわけでもない。この微妙なつながりと転調がおもしろい。

たとえば「第一章 智代」は、作者自身の姿が投影された智代と、その夫・啓介の中年夫婦の物語だ。

すでに大きくなった子どもたちは家に居着かず、二人きりで年越しを迎える。どちらも実家の両親やきょうだいとは疎遠なのだが、智子の母・サトミが認知症らしいという知らせをうけて、急遽長距離ドライブで実家へ向かうことになる。

ちなみに、本作の舞台はすべて北海道だ。札幌近郊、釧路、帯広、函館、苫小牧、阿寒、それぞれの土地勘や、同じ道内とはいえ車で何時間もかかる広大な距離感にも、家族関係が重ねられていて興味深い。京都小説の森見登美彦や万城目学のように、桜木紫乃といえば北海道小説なのかなと、土地に由来する作家性を感じた。

そしてそのあと第二章で主人公を引き継ぐのは、啓介の弟の新妻・陽紅だ。

第一章の終盤で、弟のもとに親子ほども年の離れた女性が嫁に来たという話題があったが、そこでは取り立てて重要な情報とも思わなかった。なので第二章がはじまってみると、すぐには飲み込めないほど意外なところにパスが出た感じで、「おお、そっちか」となる。

とはいえこの陽紅の物語もなかなかにおもしろい。表面的な噂話からは、「55歳の男に嫁ぐ28歳のバツイチ嫁とはどんな女性だろうか?」という好奇心ばかりが先立つが、当然ながら彼女にも彼女の人生があるのだ。

奔放な母親との関係、別れた元夫、縁談のきっかけ、そしていまの夫婦生活……。はたから見れば清水の舞台から飛び降りたと思えるような婚姻も、当の本人の視点になってみれば、その人生の行き着く先のひとつかと、自然な成り行きのようで妙に納得してしまう。

こうしてみると、家族というのは複雑に連鎖している共同体なんだなとつくづく感じる。家族の一人ひとりには、また別の家族と事情があり、その一人ひとりも、もとは別の家族の一員なのだ。

イメージでいうと神経細胞(ニューロン)みたいな構造だ。シナプスでつながった先に別の細胞(家族)があり、そのつながりが果てしなく続いていく。

そしてそんなふうに考え出すと、ふたつかみっつ隣の細胞にあたる近しい親族だって、実はよくわからない謎めいた家族であるという発見にも行き当たる。

たとえば、自分のいとこを考えてみるといい(ちなみに私には4人のいとこがいる)。その人たちの家族構成くらいは知っているかもしれないが、彼らがどのような人生を経て、現在はどこでどんな暮らしをしているかということになると、実はほとんど何も知らなかったりする。

反対に、彼らだって私の事情なんて何も知らない。でもまあそういうものだよなと、本作を読みながらあらためて考えたりした。

見る人によって変わる、老夫婦の姿

また、群像劇タイプの小説ということでいうと、同一のものに対する視点の違いというのも興味深い。

とりわけ、「認知症の母と、かつて横暴だった父」であるサトミと猛夫の姿は、上述の智代の視点だけでなく、智代の妹・乃理の視点(第三章)、家族関係ではない第三者・紀和の視点(第四章)、そしてサトミの姉・登美子の視点(第五章)から、それぞれ描かれている。

それを追っていくと、はじめは画一的に見えていたこの老夫婦の人生に、奥行きを生み出す陰影が足されていく。

まず同じ娘でも、姉と妹では両親に対する心理的な距離感や接し方が同じではない(智代がサトミのことを「彼女」や「あの人」と呼んでいるのを、乃理が腹を立ててたしなめるシーンがあった)。智代にとっての両親はなるべく無関心でいたい存在だが、乃理はそれに対抗するように親孝行をしようとし、彼らの事情にコミットしていく。

一方の猛夫は、娘たちの前では横暴に振る舞うが、彼女たちに言えない自分の胸の内や、夫婦の思い出の一端を、身内でない紀和に対しては素直に吐露している。そのため、父親のことを「ろくでもない」と思っている娘たちとは違って、むしろ紀和のほうが猛夫のやさしさや悲しみを理解できる立場になっている。

そして82歳の登美子は、いまや幼いサトミを知っている唯一の存在だ。姉妹だけが共有している遥か昔の思い出は、記憶を失いつつあるサトミにも大切な人生があったことの証明にほかならない。猛夫もそのあたりを知っているから、長い付き合いの登美子に対しては自分の弱さをある程度さらけ出すことができる。

これらの描き方でなるほどと思うのは、この老夫婦自身をひとつの章の主人公にはしていないということだ。おそらく彼ら自身の一人称語りにしてしまうと、あまりに直接的でバランスが損なわれてしまうからなのだろう。

あくまで他の人たちの視点から語らせることで、サトミと猛夫の実像が徐々に見えてくる。それは、人間は誰しもそれなりに複雑なレイヤーをまとっており、そのなかのどの層が見えるかは相手によって異なるということなのだと思う。

なお、登美子とサトミが二人きりでコンビニのプリンを食べるラストシーンは、これまで読んできた小説のなかでもちょっとないくらいに美しい終わり方だった。

悲観的なことばかりが積み重なっていく老境のなかで、このひとときだけは、小さな陽だまりが二人を包み込んでいるような温かさを感じる。「ここにひとつの幸福があるのだった」という言葉に誇張はない。

それぞれの家族観

さて、こんなふうに北海道に散らばった複数の登場人物には、それぞれの家族観がある。

ところどころでふっと漏れ出てくるその言葉はいずれも印象深かった。気に入ったものを、簡単な状況を添えて各章からひとつずつあげておきたい。

▼夫との結婚、子供の巣立ち、そして母の記憶が消えていくのを目の当たりにする智代。

ふたりを単位にして始まった家族は、子供を産んで巣立ちを迎え、またふたりに戻る。そして、最後はひとりになって記憶も散り、家族としての役割を終える。人の世は伸びては縮む蛇腹のようだ。(p.61)

▼発展しない夫婦関係に消沈しながらも、双方の事情の末に「将来を買う」選択をしたのだと割り切る陽紅。

その夜からふたりは、たった一メートルの溝を埋められない新婚夫婦となった。自分はこのあと十数年は妊娠出産の見込みのある家畜だ、という思いが頭を離れない。若さを担保にして買った将来なのだった。(p.107)

▼夫に対しても、両親に対しても、自分が「母」の役割となることで、現実の挫折を超越しようとする乃理。

夫は、自分が初めて産んだ子供だと思えばいいのだった。そして、母も子供へと戻ってゆき、父もやがてこの世を去る。乃理の人生はあらゆるものの「母」になることで美しい虹を描き、宝の埋まったところへ着地するはずだ。(p.115)

▼かろうじてつながっている父との関係を「仕舞い」にすることを意識しつつある紀和。

父は元の妻と娘に対しての罪悪感を抱えながら、月々娘に小遣いを渡す。紀和の存在が、微妙なバランスで「元家族」という関係を続けさせ、ひとつの箱に納めている。「元」がついていても家族のひとりから完全な「個」になるのはどこか心細く、しかしその心細さは、「自由」と同じかたちをしている。(p.223)

▼記憶に残ることと忘れてしまうことがある。認知症の妹を見ながら、その境目に自分を置いてみる登美子。

忘れてよいものは、老いと病の力を借りてちゃんと肩から落ちてゆくようになっているのかもしれない。同時に、それを自力で出来ない弱さが人の可愛さであるように思えてくるのだった。(p.292)

こうして並べてみると、なかなかすごいことを軽やかに言ってのけている気もする。

小説そのものは全体的に淡白な印象だが、その言葉選びにはドキリとさせられるものが多く含まれている。この先も読んでみたいと思う作家がまた一人増えた。

ハンバート ハンバート ツアー2023-2024「ハンバートのFOLK村」

今回は久々のライブレビューです。

ハンバート ハンバート
ツアー2023-2024「ハンバートのFOLK村」
2024/02/03 (土) 東京国際フォーラム ホールA

1~2年に1度くらいはライブを観に行くという感じで、かれこれ13年くらい聴き続けているハンバートハンバート。結成25周年とのことで、長く続いてるなーと感心する。

今回のライブは「FOLK村」というタイトルのとおり、昨年リリースした最新アルバム「FOLK4」をひっさげてのツアー。フォークを基調にした二人きりの演奏で、バックバンドなしのステージだった。

しかし東京国際フォーラムのホールAというのは、これまで観たライブのなかでも格段に大きな会場。「うむむ。こんな大きいところでやるのかー」と、開演前はなんだか自分のほうが不安になってしまったり……。

しかし、はじまってみるとそんな不安はすぐに吹き飛ぶ。

大会場のプレッシャーもなんのその。いつもと変わらないゆるゆるとした二人のMCから入り、5分以上しゃべってから、「いいかげんそろそろやりましょうか」という感じで曲がスタート。

佐藤良成が奏でる心地よいギターの響き、佐野遊穂の伸びやかな歌声、そして二人の声が重なったときの開放感。あっという間に多幸感に包まれる。

この日は2階最前列というなかなか快適な席。遮るものなく広がるステージを見下ろしながら座ってじっくり聴くことができ、本当に「堪能」という感じだった。

途中、遊穂さんがMCで脱線しそうになってツッコまれていたけど(電卓で音楽を奏でるYouTubeの話をしようとして、さすがに止められてたのに笑った)、それも含めてほどよいバランスで、曲数や全体の長さもちょうどいい塩梅だった。

良成さんは、アコギにエレキに何本ものギター、バンジョー、ピアノ、バイオリンと、あいかわらずうらやましくなるような楽器レパートリーを淡々とこなす。

そして遊穂さんのハーモニカも負けていない。「あんなに小さい楽器なのに、こんなに会場を震わせるのか!」と感動する。「国語」の間奏のハーモニカソロは、この日一番の盛り上がりだった。

特によかった曲など

セットリストはなんとなくしか覚えていないけど、「FOLK4」の曲はすべて演奏したんじゃないだろうか。

「格好悪いふられ方」(大江千里)や「タクシードライバー」(中島みゆき)など、しっとりと陰のある昭和歌謡が染みた。

後半のピアノパートは特にすばらしく、「ふたつの星」ではその歌詞のように二人の歌声がひとつに重なって、体が熱くさせる響きになっていた。そして、たたみかけるように始まる「虎」では、前奏のピアノの音に反応して会場から思わず歓声があがる。

終盤には「リンダ リンダ」。これはやっぱり強い。会場のボルテージを一気に上げた。

アンコールはバイオリンと打ち込み音による「うちのお母さん」、そして「おなじ話」で幕を閉じた。

休憩を挟みながら、あっという間の約2時間。

ハンバートハンバートの音楽が、もともと年齢に左右されるタイプのものではないということもあるかもしれないが、25年目を迎えて円熟し、さらによくなっている気がする。

なにより、ベテランアーティストのライブならではの安心感は、いい年になってきた自分にとっても本当にちょうどいい心地よさだった。

「FOLK」シリーズ

さて、せっかくなので、ついでにFOLKシリーズについても紹介しておきたい。

上述のように、フォーク基調のアルバムで、楽曲はどれも二人だけで演奏している。楽器の数が少ない分、二人の歌声が映えるのだ。オリジナル曲とカバー曲が入り交じり、シンプルなアレンジで懐かしさと新しさを同時に感じさせてくれる。

特にカバーの選曲が絶妙だ。それぞれのアルバムから好きな曲を一部をあげると、下記のような感じ。(オリジナルのアーティスト名とSpotifyのリストも載せておく)

■FOLK
N.O.(電気グルーヴ)
生活の柄(高田渡)
さよなら人類(たま)

■FOLK 2
小さな恋のうた(MONGOL800)
ひこうき雲(松任谷由実)
渡良瀬橋(森高 千里)

■FOLK 3
どんなときも。(槇原敬之)
今夜はブギー・バック(スチャダラパー featuring 小沢健二)
浪漫飛行(米米CLUB)

■FOLK 4
今すぐ Kiss Me(LINDBERG)
リンダリンダ(ザ・ブルーハーツ)
花咲く旅路(原由子)

1980~2000年代の曲になじみのある世代としてはうれしい。なかにはこのアルバムで知ってから、逆にオリジナルを聴いてみるなんてことも。

「今度は何のカバーが入るんだろう?」と、新しいアルバムが出るたびに楽しみになる。