いまや新作が出たら必ず観る監督の一人、吉田恵輔氏。予告編やタイトルから明らかなように、今回は子どもが失踪した母親を描いたシリアス路線の話だ。
吉田作品では、程度の差こそあれ、「人間がギリギリまで追い詰められたとき、そこから何が起こるのか」という極限の姿が描かれる。これまでは『空白』がその最高峰だと思っていたが、この『ミッシング』はそれに並ぶか、あるいは超えてくる凄みのある作品だった。
石原さとみ、だけじゃない
本作の見どころは何か? そう聞かれてふつうに答えるなら、石原さとみの鬼気迫る演技が真っ先にあがるだろう。
彼女が演じる母親の沙織里は、いわゆるヤンママ系だ。口が悪く、なんなら手も出す。弟の圭吾を「オメーほんとに何なんだよ!」と詰めるシーンなどはかなり怖い……。
何より、「あの石原さとみが!」という、華のあるイメージとのギャップは衝撃的で、他のレビュー記事などを見ると、それを取り上げて「石原さとみがぶっ壊れた」みたいな煽り口調の評も多い。たしかにこれまでの出演作からすると、本作での演技の質は明らかに異次元だ。
ただ、それはもう自明のこととして、今回はちょっと置いておくことにしよう。というのも、実は本作では脇役陣、特に準主役ともいうべき三人の男性が、最高の仕事をしているのだ。
沙織里の弟の圭吾(森優作)、沙織里たちを取材する地方テレビ局の砂田(中村倫也)、そして沙織里の夫の豊(青木崇高)。
彼らの好演を見ると、本作は単純に石原さとみが一人で背負っている映画ではないということがわかる。それぞれについて、印象に残ったところをあげていこう。
弟の圭吾(森優作)
行方不明になった6歳の娘・美羽と最後に一緒にいたのが、この圭吾だった。
当然ながら、そのときの状況について、警察やメディアからもいろいろと聞かれるわけだが、圭吾は言動が不審で供述内容もころころ変わる。そして何より受け答えに誠意が感じられない。
周囲からなじられると過剰に狼狽し、その様子から「やっぱりあいつが何かしたんじゃないか?」と疑いの目を向けられる。特に前半から中盤にかけては見ていてイライラするし、圭吾に対する疑念と不信感が募る見せ方になっている。
しかし、後半になるにつれ、「あれ?」という違う一面が見えるようになる。そしていつしか、彼の側に立っている自分に気づくようになる。
誘われるがままに行ってしまった違法賭博、幼児時代のトラウマ的な出来事、美羽との些細で幸せな思い出。そして彼なりに美羽を探そうとした努力の跡……。
そう、当たり前のことだが、圭吾にも圭吾なりの事情や感情があったのだ。
彼にとっての美羽の失踪は、本当はちっとも他人事ではない。周りからは理解されないが、ずっと後悔し、ずっと苦しんできた。
車のなかで沙織里と姉弟二人になったとき、堰を切ったように「美羽に会いたい」と泣き叫ぶ姿が印象に残る。
地方テレビ局の砂田(中村倫也)
砂田は基本的にポーカーフェイスだ。地味な仕事にも不平を言わず、人に頭を下げながら淡々とこなす。そこには彼なりの矜持がうかがえる。
ただし、野望や嫉妬とまったく無縁というわけでもない。
下世話なスクープで評価されてキー局に栄転した後輩を、気持ちを押し殺しながらも羨んでいる。内心では「なんで俺じゃなくこんなやつが」と思っているはずだ。
ちなみにこの後輩のムカつく感じとかも、あいかわらずうまい。男子トイレでの会話シーンで「アザラシの番組よかったですよー」みたいに、小便しながらフレンドリーに侮辱してくるところとか、本当に絶妙だ。
さらに、新人であんまり仕事ができない女子後輩からは、落ち込んでいるときに励まそうとしたら「こんな地方局でも地道にがんばってる砂田さんって、えらいと思いますっ!」みたいな天然極まりない失礼発言をされて、逆に苦笑いするしかなかったり……。
そんな砂田の姿を見ていると、なんだか「俺はお前のことを応援してるぞ!」と言ってやりたくなる。
しかし、砂田もさすがにいつまでもポーカーフェイスではいられない。
砂田からの再三の懇願にもかからわず、視聴者ウケのために、被害者を出し抜くような放送企画を押し通そうとする上司たち。もはやプライドのかけらもない彼らにめずらしく強い口調で説得しようとすると、「まぁまぁ砂田。深呼吸っ」とまるで取り合わない。
逃げるように去っていく上司の背中に向かって、砂田は完全にキレた形相で、声には出さず呪詛の言葉を投げかける。
そう、この表情と仕草。これって前半で圭吾が車の中からやっていたのと同じだ。
以前は「こいつ、あぶねー」といった感じでそれを引いて見ていたはずの砂田が、一周回ってその圭吾と同じ状態になっている。これはちょっとゾワッとするというか、「自分は違う」と思っていても、人間の闇の部分というのは、実は通底しているんだなと思わされた。
夫の豊(青木崇高)
幼い娘をもつ父親ということで言えば、自分自身をもっとも重ねやすい人物だったのがこの豊だ。
ただ、序盤で感じたのは、「あれ? この人けっこう大丈夫そうじゃん」という印象だ。
美羽のことしか頭にない沙織里を、「いや、でもさあ」とか、「そんなこと言っても」みたいにたしなめる言動からは、沙織里が言っていたように「温度が違う」ということを感じないでもない。
なかば沙織里の強引な思い込みで、急遽沼津から蒲郡まで車で行くことになったときも、豊は内心で「いや、これたぶんダメだろ」と思っているのがありありとわかる(それでも付き合ってあげるところがやっぱりえらいのだけれど)。
案の定、蒲郡では何の手がかりもなく、情報を提供した人物も現れない。さらに、ホテルの夕食の席では、たまたま居合わせた女の子を美羽と勘違いした沙織里が軽くパニックになって叫び出したりして、さんざんな状況になる。
しかし、そこにホテルの受付の人がやってきて、豊に「チラシ、支配人が置いてもいいって」と告げる。
実は、豊はホテルに美羽の失踪チラシを置いてくれるよう頼んでいた。いやいや沙織里に付き合っているわけではなく、自らも行動を起こしていたのだ。
はっきりいって、それが実を結ぶ可能性は限りなく小さいだろう。しかしそんなことは百も承知で、それでも自分にできることをやっている。
そのあと、外でタバコを吸っているときに、豊は小さな女の子を含む三人の親子連れを目にする。その光景には、ついこの間まで同じように過ごしていた自分たちの姿が、いやでも重なって見える。
たまたま隣に来たおじさんにライターを貸しながら顔を背けると、そこには目を真っ赤にして、懸命に涙をこらえている表情がある。
それを見た瞬間に、すべてが氷解して胸がギュッと締め付けられる。「ああ、この人もやっぱり全然大丈夫じゃないんだ。めちゃくちゃつらいんだ。そりゃそうだよな」と。
決して温度が低いわけではない。何かにすがりたい気持ちは沙織里と変わらない。ただそれでも必死に、自分を見失わないように、彼はできることをやり続けているのだ。
行方不明になって時が経つにつれ、職場のカンパは少なくなり、ビラの印刷受注も渋られるようになってくる。しかし、豊は変わらず人に頭を下げ、沙織里を支えながら地道に活動を続けていく。
そして終盤のシーン。美羽と同じように幼い女の子が行方不明になるが、幸いにも無事に見つかる。その母親が、発見に協力してくれた沙織里と豊の前に現れる。
「美羽ちゃんのために、何か力になりたいんです」というその母親の言葉に、豊はこらえきれずに涙ぐむ(そしてこちらの涙腺も決壊する)。
美羽が見つかることを信じて、日々ひたむきに活動を続けてはいる。でも事件は着実に風化していき、ずっと心が折れそうな状態だったのだろう。
そんなとき、「あなたの気持ち、わかります。私も味方になります」とはっきり言ってもらえた。それが豊にとってどれほどの救いだったか。想像すると、本当にたまらない気持ちになる。
人はここまでできるのか
あらためて、吉田作品はやっぱり「人」の力がすごいと思った。
主演の俳優陣だけでなく、細部にわたるまで「誰でもいい」という役がなく、一人ひとりがしっかり光っているというか、どの登場人物にもその人にしかできない仕事が与えられ、それを確実に遂行しているように見える。
しかも上の三人のように、同じ人物でも画一的に描かれるのではなく、思いもしなかった別の側面が現れたり、もしくは何かのきっかけで変化したりする。
あたりまえだが、どんな人でも、人間というのは複雑なのだ。そのことを、毎回実感させられる。
本作はその題材からすると、幼い子どもを持つ親の方には安易にすすめられないくらいヘビーな面もある。また、家族や恋人など、大事な人を失った方にとっても、かなり辛い作品だろう。
しかし、その「救いのなさ」が、逆説的に「救い」になるのかもしれない。
終盤で挟み込まれるのは、砂田が関わるいろんな名もなき事件や事故、そして、海岸や線路など、毎日見ているような風景を切り取ったカットだ。
それらは、関係ない人にとってはまったく思い入れのないものだ。でも、そこには「当事者」がいる。その風景をかけがいのないものとしている誰かがいる。
「何でもないような事が、幸せだったんだなって……」と言う沙織里の言葉に、カメラマンがボソッと「虎武龍?」と突っ込むところは最悪で最高のぶち壊しシーンだが、やっぱりその言葉自体は嘘ではないのだ。
なんでもない幸せを守るために、人はここまでできるのかと、またひとつの限界を見せてもらった。豊が沙織里に、「沙織里、おまえすごいよ!」と言っていたのも、本当にそのとおりだと思う。